施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」


Road of Buddhism

著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成21年5月15日   執筆完了日 平成21年4月28日

施本発行 平成21年5月28日


十、相対から絶対へ



 ここでは
論理的縁起関係にある「明るいと暗い」の喩えを用いて、特に、相対矛盾・対立矛盾について考えて参りたいと思います。

 いわゆる論理的縁起関係における
「明るいによって暗いがあり、暗いによって明るいがある」として、明るいも暗いも言えるだけであり、明るいも暗いも実体としてあるわけではなく、「無自性・空」ということでありますが、もしも明るいだけの実体世界があるとするならば、実はその実体世界においては、もはや、明るいとは言えるものでもなくなってしまい、もちろん、暗いでもありません。同様に暗いだけの実体世界があると仮定することも、同様であります。

 つまり、お互いはお互いで、
相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的において仮に成り立っているが、本当に分けて、どちらか一方だけでそのものが成り立つのかと言えば、そうではなく、成り立たなくなってしまいます。それでも、成り立たなくなるにもかかわらずに分けてしまう、本当は分けることができないものを分けて、どちらにも実体は無いのに、分けたそのどちらにも実体が有る、またはその実体が無くなる、として執着してとらわれてしまうということが、簡単に言いますと相対矛盾というものであります。

 これは、何も「明るいと暗い」のみならず、
あらゆる私たちの「分別」・「はからい」というものに言えることであります。

 とにかく、
相対の世界に留まってしまう限り、必ずや相対矛盾の中で、私たちは迷い苦しむこととなってしまいます。

 確かに、世俗の世界においては
、物事を認識・識別して判断するために、どうしても「基準」を設けなければ判断できず、そのために「分別」・「はからい」は生じざるを得ません

 学問の世界でも、必ずや何かを「基準」として、言語や記号、数式、論理などが展開されますが、
真理を知る上では結局限界があるため、そのことをしっかりと理解しておかなければならないのであります。

 もちろん、
学問による文明の発展が、人類生活に大きな意義や快適さ、便利さをもたらした面については、完全否定しませんが、必ずそれには光と影があって、文明の発展が、逆に人類社会にとって諸刃の剣となってしまうことは、環境破壊や核開発、遺伝子操作などを鑑みると、多々出てきてしまっていることでもあります。

 さて、もう少し相対矛盾について考えて参りますが、例えば、私が
「明るい」にとらわれ、かたより、こだわり、執着してしまうとしましょう。「明るい」が好きで、ほしいとして、「明るい」という実体があるとして、求めていくことでありますが、世俗においては、まず好きとなり、ほしいと渇望するものは、増やそうとしていく、大きくしていこうとします。

 一方で、
嫌いとなり、嫌悪するものは、減らそう、小さくしようと排除していくのが、普通一般に思うことであります。

 しかし、両者の関係性を注意深く考察してみますと、確かに
始めは、「明るい」は増え、「暗い」は減っていくのですが、「明るい」を増やせば増やすほどに、当然に「暗い」がどんどん減ってゆく、そうすると、実は「明るい」が「明るい」と言えるための「暗い」が、徐々に少なくなってしまいます

 つまり、
「明るい」が何であるのかは、「暗い」があることによってこそ、しっかりと分かって言えていたにもかかわらず、「暗い」が少なくなってしまっていけばいくほどに、実は、「明るい」が何であるのかが、徐々に分からなくなっていってしまうのであります。

 もちろん、「明るい」に実体があるとして、
もしも「明るい」だけの一方の世界とできたのであれば、確かに良いのでしょうが、その場合、もはや、その「明るい」が何であるのかと言えていた「暗い」が無いために、「明るい」は、「明るい」とも言えなくなってしまうのであります。それは、「暗い」だけの一方の世界でも同様であり、両者共に完全に否定されてしまうわけであります。

 もちろん、「明るい」も「暗い」も、「明るいによって暗いがあり、暗いによって明るいがある」として両者も言えているだけに過ぎないことを理解していないと、今度は
逆に「明るい」が何であるのかを、改めて知るためには、やがては「暗い」を増やさざるを得なくなるということであります。

 この場合、
「明るい」は、どんどんと減っていくこととなり、「暗い」は増えていくこととなります。そこでは、「暗い」を増やせば増やすほどに、「明るい」が何であるのかが、よりくっきりと、鮮明に分かるということとなります。「明るい」の周りを「暗い」としていけばいくほどに、自分が好きで執着し、こだわっている「明るい」が、よりはっきりと分かるということであります。

 しかしながら、その時には、
皮肉にも増えているのは「暗い」であって、あれほどに、好きでほしいと渇望して求めていた「明るい」は減ってしまって、小さくなってしまっているのであります。

 これは、
「明るい」に執着する者は、実は必ず「暗い」を増やさざるを得なくなってしまうということに陥ってゆくことを示しています。

 また、このことは逆として、
「暗い」(負の指向)に執着する者は、やがて「明るい」(正の指向)を増やさざるをえなくもなるということでありますが、おおよそ「暗い」(負の指向)に執着しようとする者は、虚無主義・悲観主義に陥ってしまうことが多く、絶望となり、その執着から抜け出せなくなってしまう傾向もあり、この場合、そう簡単に「明るい」(正の指向)が増えるとは言えないことについては、注意が必要となります。

 もちろん、
「暗い」が増えれば、「明るい」が何かが、よりその者には分かるため、今度は、その改めて分かった「明るい」を増やそうとしていくことにもなるわけであります。

 また、
「暗い」に陥っても、意識的にも無意識的にも、何とかうまく切り抜けようと、「暗い」と「明るい」を、いつの間にか転換させて、調整を図ろうとしていくものでもあります。

 それは、私たち人間は、
本能的にもそのあたりをコントロールできるということですが、そのコントロールがうまく機能しなければ、虚無主義・悲観主義に陥って、心が病んでしまい、自殺してしまったり、破滅的な事をしてしまいかねなくなるのでもあります。

 ただ、
分別した両者ともに、実体は無いということを理解していれば良いのですが、なかなかそういうわけにはいかない私たちは、「明るい」を求めていたはずなのに、「暗い」が増え続けていくことに気づくと、今度はこれではいけないと、また、「明るい」を増やしていこうとします。

 しかし、これでは「明るい」を増やしたり、「暗い」が増えたり、「明るい」が減ったり、また「明るい」を増やしたりと、結局は、
明るい、暗い、明るい、暗いと、行ったり来たりと増減を繰り返して迷うわけであります。

 もちろん、この場合の「明るい」・「暗い」という
分別は、勝手な自分の思惟分別・虚妄分別によって分けてしまっているだけのことで、仮説であり、仮構であって、どちらにも本当は実体が無いことが分からない限りは、まるで蜃気楼・逃げ水を追いかけるが如くに、永遠に両者の間を行ったり来たりと繰り返して追い求めてしまうわけであります。

 このことが、前回の施本においても述べさせて頂いたように、
「迷いのループ・輪廻《りんね》」ということではないかと考えています。

 それは、少し酷な言い方をすれば、
自分で作り出した妄想の分別に、いつまでも振り回されてしまっているということでもあります。

 ただ、「明るいと暗い」の「不二而二 二而不二」のありようを完全に破壊するということではないことは気をつけておかなければなりません。

 ここで、少しまとめますと、
AとBとの関係において、Aを肯定するならば、Bは否定されていきますが、Aの肯定進行、Bの否定進行は、やがて両者ともに否定されるに至ってしまう、また逆もしかりであり、更には、AとBを実体視し続けて、執着してしまう限り、Aの肯定進行は、やがてAの否定進行・Bの肯定進行となってしまう、Bの肯定進行は、やがてBの否定進行・Aの肯定進行となってしまうことも、しっかりと理解しておかなければならないということであります。

 このことは、
虚妄分別して恣意的にとらわれて、はからってしまっていることの全てにおいて言えることであり、幸せに執着する者は、不幸せに陥ることとなってしまう、善に執着する者は、悪に陥ることなってしまう、正に執着する者は、誤・邪に陥ることとになってしまう、というものでもあり、実に気をつけておかなければならないのであります。

 このように、
相対世界の迷いとは、どちらかに、かたより、とらわれて執着してしまうと、必ず矛盾に陥って悩み煩うこととなる、好きだ、好きだと執着すればするほど、やがて嫌いになってゆく、愛する、愛すると執着すればするほどに、やがて憎くなっていってしまう、このようになってしまうことも、結局は、何が好きで、何が嫌いか、何が愛で、何が憎いか、迷いに迷い続けるということであります。

 誠に皮肉なことでありますが、
相対の分別世界においては、必ず相対矛盾を抱えることとなり、相対から離れない限り、それは避けることができないのであります。

 「あなたによって私があり、私によってあなたがある」のように、
虚妄分別の基本の一つとして主客の二分があります。「客体によって主体があり、主体によって客体がある」ということで、本来はどちらにも実体は無いということであり、あらゆる全ては実体が無いということをもって、平等であると了解して、執着してとらわれることのない者は、もちろん、相対矛盾の迷い苦しみから逃れることができるのであります。

 とにかく、
論理的縁起関係の内包する相対矛盾を、しっかりと理解した上で、相対から離れた絶対を目指さなければならないということであり、目指すのは「不二平等、無分別の智慧」でありますが、それは、ただの「不二・無分別」では、当然にいけないことであります。

 ここで、華厳思想の縁起というものを改めて考えますと、いったん
不二平等、無分別により、言語道断・戯論寂滅において勝義諦に至った後に、もう一度、縁起的世界、「不二而二 二而不二」へと戻るところのありようを、華厳思想の縁起は顕わそうとしているのではないだろうかと考えます。
 つまり、縁起的見方について、
自己(個物・一)から世界(全体・多)を見る見方から、世界(全体・多)から自己(個物・一)を見る見方への転換であり、多と一の「不二而二 二而不二」のありようを徹底知見していくということであります。

 そこでは更に、
「勝義諦から世俗諦へ、世俗諦から勝義諦へ」という自由自在なる智慧の働きによって、無差別平等に一切衆生を救おうとする、積極的な慈悲へと転化されてゆくものであるとも考えます。

 さて、少し世俗的にも考えて参りましょう。それは
思惟分別するいずれも、所詮は、それぞれの人間の恣意的価値判断において、いかようにも変わるものでもあり、また、己の恣意的価値判断においても、どちらにもコロコロと変わるものに過ぎず、いつでも、いかようにも捉え方を変えることができるものであり、とにかく、あまりにとらわれてしまい、執着してはいけないということであります。

 このことは、
「人間万事塞翁《じんかんばんじさいおう》が馬」・「禍福《かふく》は糾《あざな》える縄の如し」という諺のように、いつまでも勝手に、これは幸せだ、あれは不幸せだとして、分けてとらわれてしまって執着することから離れることが、重要なこととなります。

 以上のことを理解している者は、
世間において多数の人々が、虚妄分別して考えているようないかなる事、例えば「憂い・恐怖・悲しみ・不幸せ・苦しみ・落ち込み・怒り・憎悪・嫌悪・敵意」事や「喜び・幸せ・快楽・享楽・愛着・好意」事などがあったとしても、もはや、心が何ら動揺することはなく、いついかなる時も、平常心において、適切に賢く対処しながら、大安心にして日々を過ごすことができるということであります。

 また、
分別のとらわれから離れた者は、より積極的に前向きに生きることができていけるようになる、ということでもあります。

 さて、
相対(分別)の迷いの世界から、絶対(無分別)へと至り、一切のとらわれ、こだわり、かたより、執着から離れることでありますが、ここで気をつけなければならないのは、もちろんそれが、単なる絶対(無分別)であってはいけないということであります。

 つまり、これまでにも何度も述べてきたことの繰り返しでありますが、単なる「言語道断」・「無分別」・「不二」・「無念無想」・「不思不観」であってはいけないと言うことであります。そこから更に、「不二而二 二而不二」のありようの理解、「勝義諦から世俗諦へ、世俗諦から勝義諦へ」という自由自在なる境地において、智慧の働きを修め、慈悲の実践をしていかなければならないということであります。




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   二、仏教基本法理の理解

   三、時間的縁起・空間的縁起について

   四、論理的縁起について

   五、般若思想について

   六、即非の論理について

   七、中観思想・唯識思想について

   八、華厳思想について

   九、仏性思想・如来蔵思想について

   十、相対から絶対へ

 十一、絶対的絶対について

 十二、確かなる慈悲の実践について

 十三、現代日本仏教の抱える課題について

 十四、最後に


 参考・参照文献一覧




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