施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」


Road of Buddhism

著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成21年5月15日   執筆完了日 平成21年4月28日

施本発行 平成21年5月28日


十三、現代日本仏教の抱える課題について



 まず、現代日本仏教における問題点を挙げてみますと、
儀礼祭祀的な形式面にとらわれてしまっての形骸化、現世利益的な祈祷・祈願・呪術の受容拡大などの神秘主義化・雑密(純密とは違う)化、また、土着信仰との融合や神仏習合などによっての教理の曖昧化、更には、葬式仏教・職業仏教・世襲仏教・世俗仏教などへの批判と、課題は山積しており、それらの解決は容易なことではありません。

 しかし、こういった流れは、何も日本に限らず、
かつての仏教盛隆の地であったインドにおいても同様であり、ここではまず、インドにおいて仏教が衰退してしまったことについて考えて参りましょう。

 その前に、インドにおける大乗仏教以前の状況について簡単に触れておきたいと思います。

 お釈迦様入滅後、徐々に仏法教理の解釈が曖昧化していく傾向が出始めたため、何度か教えを統一させるために、弟子たちが一同に集まって
仏典結集《ぶってんけつじゅう》が行われ、また、曖昧化を避けるべく、その結果が文章化されていくことにもなりました。

 ところが、お釈迦様入滅後、百年〜二百年経った頃、何度かの仏典結集を行ったものの、教団内部における教理上の解釈の対立が著しく激化してしまい、教団は進歩的立場の
「大衆部《たいしゅぶ》」と、保守的立場の「上座部《じょうざぶ》」の二つに分裂してしまいました。いわゆる「根本分裂」であります。

 それから、両部においても激しく分裂を繰り返す
「部派仏教時代」を迎えます。その中で、特に上座部系から分かれた部派の一つである「説一切有部《せついっさいうぶ》」が、大きな勢力を持ち始めることとなりました。

 「説一切有部」は、
「三世実有《さんぜじつう》・法体恒有《ほったいごうう》」の教えを説き、あらゆる存在を緻密に科学的に分析し、そして、その上で、それぞれには構成要素としての「法」(ダンマ)があり、その「法」(ダンマ)は、過去・現在・未来の三世において、常に実在しているとする考えでありました。当時、この実在論を支持する部派は数少なくありませんでした。

 しかし、次第にこの「法有論」・「実在論」の考えについて、お釈迦様の説かれた
「諸法無我」の教えから、改めて見直す機運が高まり、「法有論」・「実在論」の部派たちを「空の論理」で激しく批判する運動が起こり始めます。

 それが
「大乗仏教運動」と呼ばれるもので、その中核となったのが般若思想であり、また、その後に登場する中観思想であります。

 その般若・中観思想の段階においては、説一切有部など実在論・法有論を唱える部派仏教と激しく空の論理で論争し、
人無我・人空、法無我・法空の「二空」の理解を徹底して進めたものの、やがて般若思想の後期の頃より、それまでの「有から空へ」の流れが、「空から有へ」と変化していく傾向が見られ始めます。

 いわゆる
仏性・如来蔵思想の台頭ですが、次第に、仏性・如来蔵が「我・真我」として、実体視して捉えられかねない事態にまで至ってしまう傾向が強くなり、「空から有へ」の流れが本格的に進むこととなってしまいます。

 しかし、なぜそのような傾向を辿ることとなってしまったのかについては、当時のインドにおける社会情勢を考える必要があります。

 当時のインド仏教の抱える情勢としましては、大乗仏教運動において説一切有部などの実在論・法有論の部派仏教を相手に論争するだけではなく、当時のインドにおける有力宗教であった
バラモン・ヒンドゥー教とも勢力争いをしなければ、もはや仏教教団そのもの自体が生き残れない状況となってしまっており、勢力を拡大するヒンドゥー教の方へと民衆信仰が集まる中で、仏教の教団運営は思うようにはいかなくなってしまっていきます。ましてや、仏教内部でいつまでも抗争している場合ではない状況となってしまいました。

 また
、時の国家権力・政権にも大きく左右されてしまう中、反仏教の王朝が誕生したり、廃仏運動も起こるなど、それまでは王朝の庇護を厚く受けていた仏教の前途には、ますます暗雲がたち込め始めることとなり、何とか教団を維持させていこうと、民衆信仰を得やすい土着信仰との融和を図ったり、更には、民衆の人気が高まっていたヒンドゥー教のような祭祀儀礼の取り入れ、現世利益的な祈祷・祈願・呪術などの受容と、雑密(純密とは違う)化していかなければ、もはや信者を獲得できず、教団を維持できない程にまで追い込まれることとなり、徐々に仏教は、ヒンドゥー教化していきながらも、必死に生き残りをかけなければならないこととなってしまいます。

 そのような中で、仏教内部における「法有」と「法空」の争い、大乗仏教運動自体そのものが成り立たなくなってしまうことにもなり、まさに仏教は存亡の危機に陥ったのであります。

 そして、いよいよヒンドゥー教化が進む中で、その決定打とも言えるのが、
ヒンドゥー教の「梵我一如思想」と、仏教の「仏性・如来蔵思想」との融合的な解釈の登場とも言えるわけであります。

 
「梵我一如」とは、梵(ブラフマン・宇宙を支配する原理)と我(アートマン・個人を支配する原理)が同一であること、また、これらが同一であることを悟ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想でありますが、いわゆる「不二一元論」であります。

 この
「梵我一如」的な「不二一元論」の扱いにおいて、仏教の「仏性・如来蔵思想」もほとんど同じような意味合いを帯び出してくる傾向となってしまいます。

 つまり、
「仏性・如来蔵」を「梵・ブラフマン」として、「人我」を「アートマン」として、両者が同一になることを目指すとして、それぞれを実体視化、肯定化してしまうというものであります。

 仏性思想・如来蔵思想の私の解釈としましては、第九章にても述べさせて頂きましたように、
般若思想・中観思想における実体否定の徹底により、ややもすれば「空」を誤って、悲観的・虚無主義的に捉えてしまい、「空」・「無我」に執着して「悪取空」に陥ってしまうことを避けるために、「無我」と「我」との均衡を図り、いずれかに優劣があるのではなくて、あくまでも勝義諦へ向けて、「無我」と「我」は同等の扱いとして、「無我」に執着するものに対して、方便的に「我」としての「仏性・如来蔵」が説かれたものとして、また、如来・覚者(勝義諦)の側から無明の闇に覆われてしまっている凡夫に対して、明(悟り・智慧)の可能性を明らかにするために説かれたものであるとしまして、もしもそうではなく、「仏性・如来蔵」を実体視・肯定視することには大きな問題があると述べさせて頂きました。

 しかし、ヒンドゥー教との勢力争いの中、民衆信仰を得て安定した信者を獲得していかなければ、もはや生き残れなくなった仏教においては、
民衆人気が集まるヒンドゥー教の「梵我一如」の思想的な要素を、「仏性・如来蔵思想」が受け入れなければならなくなってしまったという事情があったのだと鑑みると、仏性・如来蔵の実体視・肯定視化も、ある意味でやむを得ないものであったのかもしれません。

 しかしながら、
インドにおける仏教は何とか生き残りを図ろうと、とにかく必死になってヒンドゥー教化を進めるものの、その結果として皮肉にも、仏教はますます存在意義を失うことにもなってしまい、あれほどに隆盛を誇ったインドの地における仏教は、五世紀頃より衰退の一途を辿り始め、十四世紀頃からは完全にヒンドゥー教に駆逐されて、壊滅してゆくこととなってしまいました。

 これは
中国仏教、チベット仏教においても、同様なことが言えるところであり、中国仏教では、インドから流入してくる仏教が、中国で起こった儒教、道教などと融合されて解釈されていくこととなったり、ヒンドゥー教化したインド仏教も随時流入することとなってしまいましたし、チベット仏教でも、中観思想を根本宗旨として様々な各派が展開してゆくものの、ヒンドゥー教化したインド仏教、また、中国仏教の影響も受けながら、やがては、民衆信仰を得やすい土着信仰との融和を図ったり、祭祀儀礼への傾倒化、現世利益的な祈祷・祈願・呪術などの受容によっての神秘主義化・雑密(純密とは違う)化する傾向が、少なからずも起こっていったのであります。

 中国仏教の変遷過程につきましては、また機会がありましたら詳しく論じてみたいと考えています。

 とにかく、原始仏典の中にありますように、お釈迦様は、
形骸化してしまうような儀礼祭祀、祈祷・呪術などにおける神秘主義的なことは、当然に禁止されていました。

 にもかかわらず、やがて仏教の中心的活動が、
儀礼祭祀、現世利益的な祈祷・祈願・呪術などの神秘主義傾向が強まっていってしまったことは、実に皮肉と言わなければならない事態であり、これはインド、中国、チベットに限らず、日本仏教においても例外ではありませんでした。

 日本においては、既に
儒教・道教など、中国の独自思想との融合傾向にあった中国仏教の流入は避けられないものであり、更には、儀礼祭祀的な形骸化、現世利益的な祈祷・祈願・呪術などによる神秘主義化・雑密(純密とは違う)化、土着信仰との融合、神仏習合などによる教理の曖昧化も避けれるものではなく、また、仏性・如来蔵思想における仏性・如来蔵の実体肯定面において発展した感が強い「天台本覚思想」が生まれるなど、もはや、本来のお釈迦様の教えからは、かけ離れていってしまったところも少なからずあるのではないだろうかと考えます。

 特に、「天台本覚思想」から多くの宗旨宗派が誕生したことは、その混乱ぶりを如実に示す事態でもあり、それは、
「天台本覚思想」における極端な現実肯定が、やがて「仏教無用論」・「修行無用論」にまで至って、仏教そのものが、堕落と衰退の道を歩みかけてしまい、そのことへの反発と反省から、浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・禅宗と、鎌倉新仏教が芽吹いたのであります。

 「天台本覚思想」は、
「絶対的絶対」・「絶対的一元論」が、現実の全面肯定に傾きすぎてしまったがゆえに、問題が生じたわけであります。

 もちろん、
「天台本覚思想」の反省から、鎌倉新仏教が興隆するわけですが、いずれにしましても、その後の日本仏教における各宗旨宗派の仏説の教理的統合は、ほど遠い状況として続いてしまっているのが現実であります。

 更には、仏教の教えを広めていく上において必要となる教団の管理・運営のためには、
時の権力には逆わず、時の権力の意向にも色々と従わざるをえない中、土着的民衆信仰、神仏習合なども受容していかなければ維持できない面があったことも現実であり、権力迎合的・大衆迎合的なところも包摂せざるをえなかったことも、ある意味では、やむをえないところがありますが、あまりに権力迎合的・大衆迎合的となり、儀礼祭祀的な形骸化、現世利益的な祈祷・祈願・呪術などによる神秘主義化・雑密(純密とは違う)化、また、土着信仰との融合、神仏習合などによる教理の曖昧化などが進んでしまうと、もはや仏教は「有名無実化」してしまい、仏教が仏教で無くなってしまう傾向が強まって、インドにおける仏教の歩んだ道のように衰退の憂き目にあう可能性は、ここ日本においてもなきにしもあらずであります。

 それは、現在における
葬式仏教・職業仏教・世襲仏教・世俗仏教についての批判も同様において懸念されるところであります。

 もう一つ、日本仏教におけることにて、どうしても触れておかなければならないのは、
あの多大の悲劇と犠牲をもたらすこととなってしまった太平洋戦争を、仏教がどうして止めることができなかったのか、ということであります。このことは、日本仏教史上においても最大の汚点として、猛省しておかなければならないことではないであろうかと考えております。

 とにかく、
何とか仏教が、本来の意義を大きく取り戻すためにも、お釈迦様の教えの原点への回帰を目指して、仏教に携わる者たちは、今一度、真摯に真理の考究に取り組まなければならないように考える次第であります。もちろん、この未熟者の愚僧においても、当然に猛省が求められるものであります。

 さて、もしも
「勝義の空」が純粋に説かれていた時期を、仏教が仏教たりえていた期間とするならば、お釈迦様の在世時とお釈迦様涅槃後、根本分裂に至る前までの数十年間、そして、部派仏教時代に法有論・実在論者たちと「空の論理」で激しく論争した般若思想・中観思想の初期大乗仏教の頃、そのわずかな間だけであったのではないかという見方もありますが、それは少し極端な意見ではないかと一蹴するわけにはいかないことも確かであります。

 しかし、それでは、純粋に
「勝義の空」へ向けてのことだけを説いていると推測されるのが仏典であるのかと言いますと、そうではなくて、本当は言語表現できない勝義諦の真理について、あくまで世俗的に教説されたもの、または、勝義諦から観る世俗世界のありようの表現も含んでいての仏典でもありますから、安易に、世俗の論理での解釈に留まったところで仏典の内容を粗雑乱暴に解釈して扱うことは許されないことであります。

 もちろん、
勝義諦の内実が何であるのかは、悟った者でしか、もはや分かるものではなく、当然に言語活動では表現できないものであって、この施本の内容がどれだけ勝義諦に近づいているものであるのかどうかすらも、浅学非才のこの未熟者では、全く図りかねないところでございます。

 
勝義諦・悟りには、ほど遠い私によるこの施本の内容は、おそらくは覚者の方からは、一笑に付されるものでしかないことは明らかでありますでしょう。

 しかし、
何が真理であるのかを真摯に探求することが、とにかく私たちには大切であり、今後もしっかりと真理を考究していかなければならないと考えております。

 
賢明なる読者諸氏の皆様から、是非にもご叱正、ご批正を賜れましたら幸いであると存じております。

 仏法真理の理解へ向けまして、とにかく自身ようやく歩みの端緒に立ったばかりの浅学非才の未熟者であり、これから更に鋭意精進努力し、学びの進めと確かなる智慧を修めていかなければならないと存じております。

 最後になりましたが、今回の内容では、
「密教」(純密)と「法華思想」については扱っておりません。後期大乗仏教を学ぶ上では絶対に欠かすことのできない「密教」と「法華思想」につきましては、また機会を改めまして、しっかりと論考できましたらと考えております。

 ここまで、この拙い本論にお付き合い下さいまして、誠にありがとうございました。

参考・・

島村大心先生の
「空の公理・真理命題・定理」

空(性)の公理
・・「無自性・平等・無相・真如・法界・般若波羅蜜多・涅槃等、現象界が仏眼に映ずる真実のあり方」

第一真理命題・・「能所識の滅、唯識説における境識倶泯に相当」
第二真理命題・・「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」
第二真理命題の系1・・「個物X=個物Y=Z・・・、空=平等においては一切の個物は等同」
第二真理命題の系2・・「一行者成正覚=一切衆生成正覚」
第三真理命題・・「真如の実有・無変異・常恒、唯識説における真実性の実有」
第四真理命題・・「後得智」

第五定理・・「離言」
第六定理・・「無作用」
第七定理・・「無時間」
第八定理・・「因果律の不成立」
第九定理・・「無空間」
第十定理・・「数、量が無いこと」

[引用抜粋・参照論文 島村大心「大乗仏教の発見した真理の内実 その1・その2」(ホームページ掲載日・二○○四年七月三十一日]

「現代仏教学を再生するためのホームページ」
URL: http://www.h7.dion.ne.jp/~sdaisin/




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 十一、絶対的絶対について

 十二、確かなる慈悲の実践について

 十三、現代日本仏教の抱える課題について

 十四、最後に


 参考・参照文献一覧




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