施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」


Road of Buddhism

著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成21年5月15日   執筆完了日 平成21年4月28日

施本発行 平成21年5月28日


十二、確かなる慈悲の実践について



 さて、前章では
「絶対平等」について少し触れましたが、確かなる慈悲の実践においては、この「絶対平等」の観点が非常に重要になるものと考えています。

 
「縁起と空」から、「相対的絶対」を超えた「絶対的絶対」を仮立して、そこにおいて今度は智慧を修め、自利利他・慈悲の実践の積極的な進め方を調えて、更には方便を用いて、あらゆる衆生に対してあまねくに仏法真理を及ぼしていけるかどうかが求められることとなります。

 自利利他・慈悲の実践を、「絶対平等」によって行っていくというのは、つまり、
まずは己のありようをしっかりと調えた上で、次に、一番身近な者たち、家族、親族から、友人、同僚、知り合いへと、更には、地域の人々、国の人々、世界の人々から、動物たち、植物たち、昆虫たち、微生物たち、地球のあらゆるものたちから、宇宙のあまねくものたち、更に、三世(過去・現在・未来)におけるあらゆるものたちへも、及ぼしていかなければならないということであります。

 もちろん、愛する者、好きな者、頼りにしている者、自分に好意を持つ者、自分を頼りにしている者、のみならずに、嫌いな者、自分を嫌っている者、憎い者、自分に憎しみを持っている者、自分に敵意を持っている者、危害をもたらしてくる者、自分に対して誤解を持っている者、更には、世俗諦においては何ら関係がないと思われる者たちに対しても、自も他も、知るも知らないも、好きも嫌いも、愛も憎も、美も醜も、優も劣も関係なく、
「絶対平等」なる自利利他・慈悲の実践を、あまねくあらゆる一切へと及ぼしていくのであります。

 世俗的において、私というものは、確かに
縁起関係で仮に存在できているという「仮有」なるものだとしても、それは、あらゆる大いなる縁起関係の中において「生かされて生きている」ものとして、私たちは存在できているのであり、そのことをしっかりと理解して、その縁起関係の中、存在できていることについての感謝と報恩をもって、日々、現実世界において様々な実践をしていかなければならないのでもあります。

 そこで、その大いなる縁起を理解し、
「絶対平等」の中において、例えば自分のやられて嫌なことは、他の者も、いかなる生き物たち、ミミズもアリもゴキブリも、当然に嫌なのだと知り、また、自分のしてもらって嬉しいことは、他の者も、いかなる生き物たち、ミミズもアリもゴキブリも、嬉しいのだということを知って、自分が無碍にも踏み潰されて、殺されてしまったら当然に嫌なように、動物や昆虫、植物たちも同様に嫌であり、自分が苦しくて、つらくて、しんどい時に、助けてもらって嬉しいことは、動物や昆虫、植物たちも同様に嬉しいということでもあります。

 このように、
自分のやられて嫌なことは、他のいかなるものにも分け隔てなく平等にしないこと、自分のしてもらって嬉しいことは、他のいかなるものにも分け隔てなく平等にしてあげていくこと、これが、「絶対平等」における自利利他、慈悲の実践として、非常に重要なものになるのではないかと考えます。

 ただ、ここで述べさせて頂いている慈悲は、あくまでも
「絶対平等」の観点からの世俗的言語表現のものであり、真なる「勝義の空」における慈悲というものが何であるのかは、もはや表現できない勝義諦におけることであり、それは勝義諦に達したものでしか分かりえないものであります。そのことは本章においても、ご理解しておいて頂かないといけないと思っております。

 これまでの施本においても何度も取り上げさせて頂きました、「ブッダのことば・スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」、第一・蛇の章・八・慈しみ(一四三偈〜一五二偈)を、今一度引用しておきたいと思います。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和《にゅうわ》で、思い上ることのない者であらねばならぬ。』

『足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。』

『他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏《あんのん》であれ、安楽であれ。』

『いかなる生物生類《いきものしょうるい》であっても、怯《おび》えているものでも強剛《きょうごう》なものでも、悉《ことごとく》く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大《そだい》なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。』

『何ぴとも他人を欺《あざむ》いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。』

『あたかも、母が己《おの》が独《ひと》り子を命を賭けても護《まも》るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。』

『また全世界に対して無量の慈しみの意《こころ》を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。』

『立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥《ふ》しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。』

『諸々の邪《よこし》まな見解にとらわれず、戒《いましめ》を保ち、見るはたらきを具《そな》えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。』・・引用ここまで。 

 自分も、自分の子も、他の子も、好きな者も嫌いな者も、動物も植物も、ミミズもゴキブリも、どんな微生物でも、
皆、「絶対平等」であり、分けて考えてしまうことはできないのであります。分けてとらわれて執着してしまえば、相対・対立矛盾を抱えて迷いの中に陥ってしまうことになるため、それは何としても避けなければならないのであります。

 さて、もちろん最終的に目指さなければならないのは、
「勝義の空」・「勝義諦」における慈悲の実践でありますが、それはもはや勝義諦に至った者においてこそ展開できるものであり、世俗の言語表現において表すことは、無理なことであります。

 私たちも精進努力して
智慧を修め、「絶対的絶対」を経ての「勝義の空」を了解し、真なる慈悲の実践へ向けまして頑張って参りましょう。




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 十一、絶対的絶対について

 十二、確かなる慈悲の実践について

 十三、現代日本仏教の抱える課題について

 十四、最後に


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